日常狂言新聞 (1)
日常狂言新聞
「ああ、俺はまたやってしまった」
と一人呟くのは 小平市の離れに あるアパートの一室 まるで独房の様に家具も家電もない白塗りの部屋で最低限の物で極極の生活をする青年
タナカ ヒロキ(25)であった。
彼はため息をつき 床を何か雑巾の様な物で
呆れながら 落としてしまった茹でパスタを
懸命に拭っている
当たり前で簡単な事がまた上手く出来ない
と彼はひどく落胆した顔で ほのかにまだ
湯気立つ茹でパスタの麺を これ以上床を汚さない様にと 丁寧に拭き上げようとしていた。
なぜ鍋から湯切りが付いたボウルに
移すだけの事が出来ないのか?
彼の思考はそう言った簡単な事が出来ない
自分のなさけなさや恥ずかしさに捉われ
パスタを食べる事を諦めた。そして
その後 あらかじめ仕込んでおいた
パスタのソースを放置していた事に気づくのは夜19時を過ぎてからの事だった。
彼の日常はアルバイトを除けば
それはかなり単調でいささか面白味に欠けるものであり、近くにあるホームセンターで揃えた寝具一式の寝床から起床し そのまま
側面にある白いテーブルに向かい
トレース台の電源を入れ 眠るまで絵を描く事だった。彼はそれ以外に滅多な出費はしない。
お腹が空けば近くのスーパーにでも行き
パスタ料理を中心とした思考で食材を購入し
すぐさま家(独房の様な部屋)に戻り また絵を描くといった具合だ。つまり、ようするにただの貧乏なのだ。
彼の世界はその白塗りの独房の様な部屋で
広がって行き、そこに収縮し、膨張を繰り返す。
「ええ、はあ、まあ、確かに……そうですが…」
と誰かと通話でやりとりをしている
何かの打ち合わせをしているのだろうか。
その弱々しく みっともなく 頼りない声は
なんなんだと 問いかけたくなるくらいに
彼は縮小の限りを尽くし
目前にある白いテーブルが何処までも永遠に
続き真っさらな平野に見えたのも
束の間 彼は通話を止め(話がちゃんと終わって切ったかは定かではないが) 部屋を抜け出し
煙草を買いにそそくさと出掛けてしまった
陽の微睡み具合から 午後を丁度
回り始めた頃だろうか
ゆるくてぬるい、そして景色が
薄い水色と桃色の様な透過を見せている
「春だ、」
彼は呟いた。 そう、春が来ていたのだった。
彼のアパートの前にある小学校の門前に
立派な桜の幹があり その幹から伸びる
繊細かつ逞しい枝から吹き出す様に
桜の花びらで溢れ出していた
彼は時々自決を考えていたそうだった
理由は山程あるが、当たり前という物に
なれない、混ざれない、なり得ない
社会性の欠落や 些細な自ら容姿に対しての不満や 絵に対しての漠然とした焦燥たる不安
彼は幾度も考えた
生きる意味とは何か
桜を見た時に彼は そんな 死に対する
気持ちを想起させた
それは 彼が安吾を好んでいたからなのか
小さい頃に公園の桜の木で首を吊ると言う噂が
学校で話題になっていたから
そう思ったのかも知れない
彼は とにかく 死をイメージした。
死にたいのではなく、死そのものに対して。
「春よ〜〜 遠い春よ〜〜」
ユーミンだ。ユーミンである。ただこの曲が
ユーミンのなんて名前の曲かは知らない。
ただ、ユーミンだと言うの事は確実に理解している。その先から分からず 同じフレーズを
何度も繰り返し彼は煙草が置いてある
コンビニに向かう。
煙草を買って出て来る頃には風をあつめていた。この空をかけたいんです、と言わんとばかりに。
「はっぴぃえんどは好きだからね。」
何も問い掛けてはいないが彼は言う。
煙草を早速取り出し ライターで火をつけ
ハイライトの煙がゆっくりのぼり
水色と桃色の色彩に溶けた。
輪郭をかたどる。あなたみたいに。桜の季節。
思い出ばかりが頭をよぎる。
あの時あなたにこうすれば良かった
あの時ちゃんと言葉にしておけば
些細なきっかけは過去へと人生の濁流に呑まれ
もう進むしかない自分が どうも頼りなくて彼は辛い
訳もなく涙が流れる
何もしていないのに、何もされていないのに
まだ彼は季節の移り変わりに慣れていない
らしかった、
帰る頃にはパスタソースは冷たく鍋の中に
鎮座しており
春の夜風に彼の身体も芯から冷え切り
下書きの絵が描かれた紙で沢山散らばっている白いテーブルに目をやった
途方も無い平原には変わりなかったが
進むしかない 地球は丸く出来ている
もしかしたら、ひょっこり誰かが自分を待って顔をのぞき出すかも知れない
そうだ、うん、そうだそうだと
彼はこっそり買っておいたお酒を取り出し
桜を見ながら飲んだ
パスタソースを温め直し夜ご飯にした
死を前に出来る事があるならやるしかない
また彼はペンを取り出し絵を描き始めた
ある 春の日常の記録
文: タナカ ヒロキ
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